若い頃は好きでなかった山桜が、年を重ねるごとに好きになって来た。今山桜が満開の時期を迎えている。昔山桜が好きでなかった理由は染井吉野の刷り込みにあったと思う。1942年、太平洋戦争勃発の翌年、山口県立女子師範学校付属国民学校(と戦時中は小学校を呼んでいた)の入学式に母親に連れられて初めて校門をくぐった時、校庭の周囲をグルリと飾る染井吉野の満開の花に私は圧倒された。これが桜なのだという刷り込みがこの時完成した。以降桜に大して関心は無かったが、染井吉野以外の桜に故郷で出会った記憶がない。関心が無かったから意識しなかっただけかも知れないが、山は松と照葉樹ばかりで野生の桜は無かったように記憶する。大学進学で東京に出て来てからも、見掛ける桜はほとんど染井吉野だった。だから山桜に出会った時には違和感を感じた。赤茶色の葉が花に混じっているのが異物のように感じられて、好きになれなかった。
染井吉野には1世紀の歴史しかない。1900年に初めて「日本園芸雑誌」に新種として発表されて以来、実生(みしょう。種からの意)繁殖が出来ないから全て挿し木によるクローン繁殖で全国に普及した。だから個体によるバラツキが無く、差は環境だけに起因するから、気象庁の開花宣言などには便利だ。欠点は寿命が70-80年、高々100年と短命なことだ。
山桜という呼び名には広義と狭義の二つの意味があると思う。狭義には特定の品種を指す。広義には、山桜と里桜の対比で、野生の自然種と交配栽培種を表現した歴史がある。広義の山桜は自生する野生種だから、勿論実生で繁殖する。長寿でもあり、岡山県津山市の鳥取県県境の山奥には樹齢560年の山桜の巨樹ががあるそうだ。近くにはあきる野市五日市に足利尊氏が創建したという光厳寺に樹齢400年の大樹がある。実生繁殖だから個体によるバラツキが大きい。つまり若葉に赤紫色、褐色、黄緑色、緑色などがあり、花の色も白色から紅紫色まで千差万別で、開花期にもバラツキがある。また長年にわたって地域の気候に順応した変種が多い。
例えば伊豆諸島・伊豆半島・湘南に多い大島桜は、山桜の地域適応種である。狭義の山桜の花を真っ白にして、若葉を緑にすれば大島桜になる。八王子の山にも山桜に混じって大島桜が点在し、南に下るほど大島桜の割合が増え、伊豆半島では大勢を占める。例外的に鎌倉市と横浜市大船の市境に大島桜だけの山がある。高山および東北地方には狭義の山桜より葉と花がやや大きい大山桜があり、花の色がやや濃いことから紅山桜とも呼ばれる。その連続延長線上に北海道には蝦夷山桜がある。
平安初期までの和歌で「花」と言えば梅だったのが、10世紀半ば以降は桜に代わった。紫宸殿正面の「左近の桜、右近の橘」も、左近は昔は中国に倣って梅だったのが、960年の大火で植木も枯れて植え直した時に桜になった。平安文化が中国文化から独立した象徴に数える人も居る。勿論山桜だった。右近左近を誤って逆に言う人は天皇に拝謁する位置からの左右であり、京都市の左京区右京区も逆にしなければならない。
狭義の山桜の花に赤茶色の葉が混じるのを若い頃は煩わしく思ったが、年を経て2色の組合せを美しいと感じるようになった。慣れたのだろう。大島桜の真っ白い花と緑の葉のツートンカラーも美しいが、山桜も良い。それに大樹が多く、大樹好きの私の感性をくすぐる。八王子の山を歩けば、日頃必ずしも目立たない山桜が花期にはこの時とばかり自己主張をしている。目立たぬ人が或る時他を圧するほど輝く場面に似て愛おしい。
実は自宅のまん前の斜面に巨大な山桜がある。間違いなく宅地造成以前からあった大木だ。名も無い桜だが、固有名詞がついてガイドブックに載ってもおかしくない程の巨樹だ。今年は4月4日に咲き始めたことに気付き、8日に満開となった。ご近所に毎年元気を与えてくれる。
桜と言えば山桜だった時代に奈良吉野山は、蔵王権現のご神木の山桜を植えることが功徳とされたので山桜の山になった。吉野や古刹を例外として山桜は植える木ではなく生える木だ。染井吉野が道路沿いまたは或る範囲に植えられて集合的な美しさを誇るのに対して、山桜は基本的に勝手に生えて大樹となった個の生命力の美を見せる。いいなあと思う。 以上