SYSTEMA by MITO YUKO
どうせこの世は憂きことばかり ?
: 読書案内
河竹登志夫著『憂世と浮世』
by MITO YUKO
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◇ 普段なら決して読まないような本をたまたま
読むことによって、その人の人生の方向が決定づけられたり、
あるいは、目の前の仕事への気合いがグンと入ることは、
よくあることである。
ところが日本には昔から、ひとつの道をとことん突き詰め
てゆけばひとかどの人物になれるという「道」の文化の伝統が
あるから、ヘタによそ見をすると、道を失いかねない、
という恐怖のほうが先に立ちがちだ。
◇ 河竹登志夫著『憂世と浮世 世阿弥から黙阿弥へ』、
( NHKブックス 1994 ) は、 歌舞伎や能
についての本である。
というと「関係ないね」という反応がまずほとんどかもしれない。
が、まあ、「いいお役人になろう!」(注) というなら、このぐらいの
ことは知っていて欲しいし、息抜きのつもりで読んだら、
日本の大衆社会の根っこがどこいら辺にあるかが見えてきて、
案外ためになる。そんな気がするのだ。
注) この原稿は、未来のお役人を目指して勉強に励んでいる
若い人々を対象にした゛息抜きのための読書案内゛として書かれた。
◇ タイトルにもある「憂世」と「浮世」は、
中世武家社会の芸能である能の世界観と、
近世町人社会の芸能である歌舞伎に流れる世界観を
対比させたもの。
簡単にいうと、この世の悲劇をシリアス( serious )に受けとめ、
そこからの救済を願うのが「憂世」観であり、
「どうせこの世は憂きことばかり」と開き直って、いま、この時を
楽しんでしまおうというのが「浮世」観。
「憂世」観を核にした能は、西欧流に言うなら古典主義的で、
「浮世」観に根ざす歌舞伎はバロック的。
洋の東西を超えて、人間が生きるところにはいつも、
この二つの世界観が楕円の二つの中心のようにあるのだ
ーーと物理学も学んだ演劇研究家の河竹登志夫さんは言う。
◇ といっても、中世や近世の人々にとって「憂きこと」といえば、
恋の苦しみや、戦や殺生の苦しみ、別離や老いの悲しみといった
ところであるわけで、いまのように金融危機の不安や、組織犯罪や
テロへの恐怖、技術暴走への不安…、果ては核戦争の危険や
地球環境問題まで、巨大システム固有の問題にさらされる時代
とでは、憂いの中身に大きな違いがある。
が、どんなに世の中が変わっても、いまあるこの世を「憂世」と
とらえるか、それとも「浮世」ととらえるかによって、
人の生き方が大きく違ってくることに変わりはない。
◇ 現代を「憂世」と見たなら、救済や解決を求めるのが道理だし、
「浮世」ととらえたなら、熱狂や、興奮、快楽を求めて生きる
ことになる。
分かれ目は、その人が救済や解決を「可能」と見るか、
「否」かにある。
◇ そこで考えてみてもらいたいのは、相互依存関係が強まり、
巨大システムと化した現代社会を人類は果たしてどこまで
コントロールできるかという問題だ。
実をいうと、複雑な系に対する人間の認識能力や操作能力には
限界があることは、すでに理論的に明らかにされていることなのだ。
( たとえば、塩沢由典著『複雑さの帰結ー複雑系経済学試論』
NTT出版 1997 )
つまり、宗教による救済を除けば、複雑な現代社会の問題は
そんなに簡単に解決しないのであって、憂きことは、
憂きことのまま残る可能性が高いのである。
◇ ということで、憂世の勉強に疲れたら、浮世の楽しみもと、
たまには歌舞伎にも足を運ぶことをお勧めする。
いま、この時を「浮世」と思って生きている人々に
奉仕し、その人たちのために問題解決の糸口を探すのが、
どうやら皆さん方の仕事になりそうだからだ。
2003.7 みと
* 『受験ジャーナル』(実務教育出版) 2003年7月号 初出転載。 *
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