大久保っちのちっちゃな研究室~ ハーバーフェルトトライベン (Haberfeldtreiben)の世界 ~燕麦畑の狩人たち~
 




19世紀前半以前の


ハーバーフェルトトライベン(Harberfeldtreiben)



19世紀前半以前のハーバーフェルトトライベン(Harberfeldtreiben)

 ここでは17・18世紀と19世紀前半のハーバーヘルトトライベン(Haberfeldtreiben)の傾向を制裁対象と制裁理由の変化を中心に簡単に説明したいと思います。

(1)17~18世紀のハーバーフェルトトライベン

 17世紀のハーバーフェルトトライベンは、記録されているトライベンについては数件しかみられず、シーダーは1643年10月のノイキルヒェン(Neukirchen)他2件をあげているが、具体的な内容は記載されていない。
 18世紀のハーバーフェルトトライベンでは、 制裁の理由の中に性的不道徳な行為に対するものがみられ、未婚の娘などが制裁の対象となっている。事例としては、1719年アイブリンクのアウ、1750年ヴェルンミュール、1766年パルスベルクなどがあげられる。

           
(2)19世紀前半のバイエルン社会

 19世紀前半、神聖ローマ帝国の消滅(1806)によりバイエルン王国は主権国家として歩みだし、以後近代化に着手した。 それとともに、王国内の教会への統制は強化され、祭日が制限されるなどした。
 1832年には地方治安警察(Gendarmerie)が配置され、1833年の王令ではハーバーフェルトトライベンを条件付きで容認する。しかし、その翌年の1834年には前年の王令を撤回している。
 なお、1840年代は凶作と飢饉(1845・46年)が続き、穀物不足による価格騰貴が原因となり、都市では暴動が発生 している。また1848年の三月革命の影響は、農業政策にも及び、近代化政策の一環としては、農民解放が実施され、領主支配の時代が終わり、自営農民が創出されている。

(3)19世紀前半のハーバーフェルトトライベン

 1820年代まで制裁対象は未婚の女性が多く、理由は正式な婚姻によらない私生児の出産などがみられる。このように制裁対象者はここまで未婚の女性が多かったが、 1830年代にはその制裁対象者に変化がみられ、庭師(Gärtner)や猟師などがみられるようになる。ここでは、従来の制裁理由である性的不道徳だけでなく、密猟者の殺人が制裁行動の理由になっており、 性的不道徳に関しても男性に対して制裁が加えられるようになる。また、1834年9月7・8日のファーゲンの事件では、地方治安警察がハーバーラーを逮捕する事態が起きている。
 1840年代になると社会的地位のある人物に対して制裁が加えられるようになり、1841年9月25・26日イルシェンベルクのハーバーフェルトトライベンでは、司祭カルムの解任を求めた抗議行動となっている。また、個人を対象とした制裁から複数の人物に向けられた制裁となっており、1849年10月20・21日のファーゲンの事例では、農場主マール・フォーグト他合わせ8名が制裁の対象となっている。この事例における制裁の理由は、性的不道徳だけではなく、農場主に関して は、借金のことで非難していることから、経済的な理由も加わっている。また、同年11月11・12日フィッシュバッハウにおいて起こったハーバーフェルトトライベンでは、制裁対象者は司祭・村長含む4名となっており、理由は性的不道徳だけでなく、馬の窃盗などがあげられている。

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