大久保っちのちっちゃな研究室〜 ハーバーフェルトトライベン (Haberfeldtreiben)の世界 〜燕麦畑の狩人たち〜
 




19世紀後半以降の


ハーバーフェルトトライベン(Harberfeldtreiben)



19世紀後半以降のハーバーフェルトトライベン(Harberfeldtreiben)

 ここでは19世紀後半のハーバーヘルトトライベン(Haberfeldtreiben)の傾向を制裁対象や制裁理由などの変化を中心に簡単に説明したいと思います。

(1)19世紀後半のバイエルンの農村における状況

 1852年に出された「農場分割法」は、小規模経営の拡大化や耕地の集団化阻止するものであった。また、1866年に起きたプロイセン=オーストリア戦争は、信用恐慌をもたらし、経済は混乱し、農産物の価値は失われていった。また、1870年代ドイツ全体の工業化の中で、カラス麦や小麦の輸入超過は恒常化していった。1873年以降穀物価格は慢性的に低落し、1890年代の国際競争の中で穀物価格はさらに低落し、農村では負債をかかえる農民が増加している。

           

(2)19世紀後半のハーバーフェルトトライベンに対する行政側、教会側の対応

 行政側は、1863年グラーフィンク(Grafing)で起きたハーバーフェルトトライベンを契機に、保安警備を配置し、正規軍を当該地域に配置するようになった。エベルスベルク(Ebersberg)で1864年に発布された告知文では、その事情についての説明が書かれている。
 また、カトリック教会側では1866年にハーバーフェルトトライベンに対するの破門宣告が出されている。なお、1870年代には当局の捜査が強化され、このことはハーバーフェルトトライベンの発生件数の激減との関係が考えられる。
 1893年にミースバッハのハーバーフェルトトライベンが発生すると、教会側はハーバーフェルトトライベン参加者に対する破門宣告を繰り返えしている。

(3)19世紀後半のハーバーフェルトトライベン

 制裁対象者の数は19世紀後半に入ってさらに増加し、1860年代には制裁対象者が10人以上の事例などが増えている。また制裁対象者についても、職種も医者、弁護士、郵便支局長、教師、軍の司令官、工場主、警察官など多様化する。
 制裁理由を1863年の事例からみると、例えば、10月27・28日レングリース(Lenggries)の事件では、農場の買い占め、工業化による貧富の拡大が背景にあり、11月10・11日グラーフィンク(Grafing)の事件では、経済的に裕福なグラーフィンクの市民に対するエクシンク住民の妬みが背景にあり、社会的・経済的格差が制裁行動の原因となっていると考えられる。
 また、1870年代以降はハーバーフェルトトライベンの件数が減少し、参加人数についても小規模化していく。1891年10月24・25日シュリーゼー(Schliesee)のハーバーフェルトトライベンでは、「混ぜものの牛乳」を作っていることや、詐欺行為という社会的不正に対して制裁行動が行なわれている。
 また、1893年9月16・17日ファーレイ(Valley)では粗悪なミネラルウォーターを製造している業者に対して制裁行動が行われている。

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