大久保っち(おおくぼっち)のちっちゃな研究室
大久保っちのちょっとした研究
グリオが語るアフリカの歴史
〜口承伝承の教材化1
ここに掲載したものは社会科の部会などで発表したものです。社会科部会世界史研究推進委員会で発表した内容の概要です。アフリカの音楽集団グリオによる口承伝承をどのように教材化できるかを考えたものです。 |
イスラーム世界に属する西アフリカ、北アフリカの地域に関する歴史を世界史の授業で扱うことは、あまり機会のないことであろう。また、文献史料に乏しいことからも教科書ではそれほどの紙面が裂かれていないことも事実である。しかもどのようなものを切り口にしていけば生徒が興味。関心を向けることができるかという点でもなかなかいい材料がみつからないという問題もある。さて、その中で私が今回とりあげるのは、西アフリカのグリオである。彼らが歌を通して語り継いできた歴史上の人物の物語は、どこまで正確な史実を伝えているかの検証は必要であろうが、彼らの視点による西アフリカの歴史を伝えていることには違いない。そこで今回は口承伝承をどう世界史授業で使えるかという視点で考え、その中で視聴覚教材をどう活用できるかについても検討したい。
現在グリオとよばれる吟遊詩人は、ガンビア、セネガル、マリ、ギニアに多く見られる。彼らが歴史上において登場するのは、 13世紀のマリ王国の成立あたりからである。彼らの姓で多いのはクヤテとかジャバテとかコンテやシソコ(スソ)であり、これらの姓はマリ王国成立時に出てくる王家に仕えたグリオの姓を継承する場合にみられる。彼らは狩人や鍛冶屋と同じ世襲集団であり、その限られた集団の中で彼らは歴史と音楽を代々伝えてきた。彼らの中には王家に仕え、王の業績を歌で称えるだけではなく、王の言葉を民衆に伝えたり、他国との折衝の際に交渉役として遣わされたグリオもいる。 一方で「狩人が大きな獣を射止めた時、その動物の霊に狩人が対抗できるための特別な歌」(西澤玲子)を歌う狩人グリオというのもいた。そして親方の下で十人程度の集団を作り、近隣の家から村へ、そして祭りの時に訪れ報酬を受ける放浪のグリオもいる。彼らが使う代表的楽器のコラについてだが、この楽器はマリ王国成
立時にはなく、 18世紀あたりから使われるようになったと考えられている。演奏する他の楽器としては大鼓とかバラフオンなどを使うこともある。グリオの歌う内容の多くは歴史上の英雄を称えるものである。他には教訓的な歌やパトロンヘの褒め歌や時の為政者を称える歌などが多い。宗教的な内容のものは少ない。
3.マリ王国の建国とグリオ (1)マリ王国の建国と衰亡 |
13世紀前半(1235年)西スーダンのニジェール川流域に農耕民のマンデインカ(マンディンゴ)人による王国が成立する。この王国はスンジャータ王が建国したマリ王国といい、その後この領域を拡大し、スンジャータ王は周辺のソソ王国などガーナ王国の領域一部を征服した。その後14世紀のマンサ=ムーサ王の時代に全盛期を迎える。「黄金のマリ帝国」の噂はメッカ巡礼の話とともに地中海世界にまで広まった。しかし15世紀以降帝位をめぐる争いと外部からの攻撃によつて王国は衰退していく。この王国の交易の要衝であった都市トンブクトウはニジエール中流域に建設されたソンガイ王国の軍に征服され、貿易の拠点を西方へと移動させていく。スンジヤータ王のマリ王国建設以前の記録についてはアル=バクリーの記録に、「ニジェール川上流にマラル(マリ)という国があったが、その王はアル・ムスルマーニ(イスラーム教徒の意味)とよばれている」という部分があり、すでに王がイスラームに改宗していことが記されている。西スーダンにおけるイスラームの伝播がかな
り早い時期から始まっていたことを示すものである。なお、後にトンブクトウを征服したソンガイ王国の前身であるガオ王国の王も11世紀にはイスラームに改宗している。
3.マリ王国の建国とグリオ (2)マリ王国建国に関してグリオが語ること |
グリオの伝承ではスンジャータ王の物語は一つの主要なテーマである。これを題材とした歌も多く、代表的な曲には「スンジャタ」「スンジャタ・ファサ」「クラ」などがある。「スンジャタ・ファサ」には「シンボン、お前の弓をとれ/弓をとり、いざ行け/ソロゴン。ジャタよ、弓よとれ」という一節がある。スンジャータ王に仕えたグリオのバラ・ファセケが歌うこの賛歌に出てくる「シンボン」という語句は非常にすぐれた狩人の名誉ある称号で、力ある者を讃える言葉の一つだと考えられている。「ジャタ」はライオンのことで、すなわちスンジャータ王を指している。歩けなかった彼が立ち上がり、歩み始めた時にバラ・ファセケがこの歌を歌った。やがて彼は狩りを愛する少年に育っていく。その彼が成長し、メマの王トウンカラに気に入られ、軍にも入り、活躍するようになったが、当時勢力を広げつつあったソソ王国の王スマオロがニアニを攻撃し、この都市を灰塵と化すと、スマオロはマンディンゴの王を名乗つた。それを認めないマンディンカの人民はスンジャー
タを亡命先から探し出し、マンディンゴを救うように懇願した。人民に支持された彼は亡命先からニアニに戻り、スマオロ王の一族と戦い、勝利をおさめた。この勝利に貢献したのはスマオロの甥で、ある事件をきつかけにスマオロに対し反旗をひるがえしたファーコリ・コロマである。このような歴史の流れの中でグリオのバラ・フアセケが両国の交渉で活躍するのである。したがって、ここで登場するグリオは単なる吟遊詩人だけという区分だけではおさまらない人物である。使節団としても活躍するグリオは、彼に終わらない。彼らの活動が常に移動を必要とするため、周辺地域の政治状況などに詳しいということが、グリオを単なる吟遊詩人に終わらせない重要な役割を与えることになったのだろう。
スンジャータに関するグリオの歌から得られる情報は、語るグリオによって微妙に違っている。成澤氏はイギリスの研究家ゴードン・イニスが編纂した三篇の話りもの(バンバ版、バンナ版、デンボ版)とジェリ・ママドゥ・クヤテによるもの(ママドゥ版〉を比較検討をしているが、スンジャータが生地を追われた理由やバラ・ファセケ・クヤテの立場についてなどはグリオの住む土地などによって違う。イニスがこのことからスンジャータの実在そのものを疑らていることを自状していることにも成澤氏は触れている。しかし、グリオたちはそれぞれの視点からとらえた歴史を口承伝承という形式で伝えているため、このような違いが出てくるのはやむを得ないことである。その中で真実はどこにあるのか。これこそが歴史をどのようにとらえるのかという一つの教材とも成りうると考えられる。これからもグリオの伝承は様々な視点から比較検討する価値があるのではないだろうか。
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