大久保っちのちっちゃな研究室〜 ハーバーフェルトトライベン (Haberfeldtreiben)の世界 〜燕麦畑の狩人たち〜
 


大久保っち(おおくぼっち)のちっちゃな研究室

   大久保っちのちょっとした研究     


グリオが語るアフリカの歴史

〜口承伝承の教材化2

 ここに掲載したものは社会科の部会などで発表したものです。社会科部会世界史研究推進委員会で発表した内容の概要です。アフリカの音楽集団グリオによる口承伝承をどのように教材化できるかを考えたものです。

4.19世紀の西スーダンの政治状況とグリオ (1)アル=ハッジ=ウマルのジハード

 アル=ハッジ=ウマルは1794年頃現在のセネガルのフータ・トロ地方で生まれた。イスラーム道士(マラブ)の家に生まれ、イスラーム式の教育を受けた。彼は当時アルジェリアやモロッコを中心に活躍していたティジャーニー派のスーフィー教団に入った。メッカ巡礼を1826年に終え、その後1840年頃からフータ・ジャロンを拠点にテイジャーニー派の布教活動を展開した。そして故郷フータ・トロヘの布教活動の旅に出るが、フランス軍に妨害され、フータ・ジャロン地域の首長とは対立するようになった。彼は1850年代にジハードを宣言し、武力による布教活動を展開するようになつた。フータ・トロヘの進出はフランス軍に阻止され、うまくいかなかった。
 一方、フランス側は1857年のメディヌ包囲を契機に、ウマルの国家(トゥクロール帝国)への警戒心を強めるようになった。彼はトゥクロール帝国に対抗する勢力と戦うために1860年フランスとの協調関係を作り、ジハードを推進していった。そしてフランスとの決戦という状況が近づく前の1864年に逃亡中マシナの軍によって殺された(自害したという説もある)。その後ウマルの息子アマドゥの代にはフランスの愧儡政権となることもあり、トゥクロール帝国は1893年のフランス軍によるセグ陥落により崩壊する。

4.19世紀の西スーダンの政治状況とグリオ (2)サモリ=トゥーレの聖戦

 サモリ=トゥーレはギニアのニジェール川上流のコニャン(コンヤ)地方に生まれた。父はジュラとよばれるムスリム商人の出身で、あったが、彼自身はアラビア語は読めず、イスラームの知識も乏しかった。また母は非ムスリムの家系であった。彼は若いころから軍事行動に参加し、1860年代にはサナンコロとその周辺を支配し、自らを王(ファーマ)と名乗るほどになり、 1881年にはニジェール川上流右岸地域に支配権を確立した。 1882年にはフランス軍と初めて衝突する。彼がイスラームを持ち出すのはこのあたりからとされている。イスラームを学び、 1884年には自らをイマームと称し、イスラーム化政策を展開するが、これは民衆や親族の反感をかうことになった。 1880年代にはこの政策は破棄されるようになった。このイスラームヘの接近は当時のサモリの外交政策とも関係している。 1880年代のセネガルではティジャーニー教団の連合国家がフランスに抵抗しており、サモリはこのティジャーニー連合の王と手を結んだ。
 フランスとサモリの関係は1880年代においては緊張関係を続けつつも、決定的な破局の状態には至らなかった。 一方フランスはサモリ帝国とトゥクロール帝国の敵対関係を利用し、分断政策を展開し、トゥクロール帝国への支配力を強めていった。 1890年代には事態が一気に急変し、フランスは1890年トゥクロール帝国を崩壊させてのちサモリ帝国への侵入をはかり、 1892年にはピサンドゥグを占領した。サモリは逃亡し、東方に第二帝国を築き、ティジャーニー派の国家との間の反仏連合にも加わっていた。サモリの抵抗はその後も続いたが、コートジボアール方面への進出により、それまで武器調達に関与していたイギリスとの関係が悪化し、武器供給が途絶えた。 1898年には彼はフランスに捕えられ、 1900年に流刑地ガボンで亡くなった。


5.グリオの歌と教材化   (1)アル=ハッジ=ウマルと戦士たち

  「タラ」という別れを意味する詩の内容をとりあげる。
  「彼は行ってしまった‥‥信仰深い戦士は行ってしまった。/残された我らは導きも、支えも、望みも失った。/彼は行ってしまった‥‥炎の馬にまたがり/新しい地平のかなたへと‥‥」 というものである。
  これはアル=ハッジ=ウマルが「侵略してきたフランス軍をフンタケの兵士とともに掃討した時の凱旋、そして、彼が人民を置き去りにして死の戦いに出発してしまったこと」を歌ったものであると成澤氏は指摘している。ちなみにまた、このアル=ハッジ=ウマルとともに戦士ファリケ=ジャラを取り上げている。フランス相手に戦う勇敢な戦士を讃えた歌はこのような無名な戦士も含め多く歌われている。


5.グリオの歌と教材化   (2)サモリ=トゥーレに関する歌

 サモリ=トゥーレについて直接語るグリオの曲は少ない。成澤氏は彼の弟のケメ・ビラメの方がよく取り上げられていることを指摘している。次の詩は『サモリ賛歌』とよばれるものの一部である。
 「ああ、ソネ・カマラの息子よ、/銃の達人、禿鷹よ―/この調べこそアルアミ・サモリのための歌/勇者のためにこそ歌え、臆病者には歌うまい。/アルアミは日々戦い、兵士は恐れを知らなかった。/ソネ・カマラよ、貴女は勇者を生んだ/貴女の祈りは聞き届けられた‥…」
 アルアミはアル=イマームのことで、1884年にサモリはこの称号を名乗るようになった。授業ではこのことからサモリの外交政策とイスラームとの関係について触れてみるのもいいだろう。また「銃の達人」というところからサモリがフランスに対して抵抗する際に使った武器に銃が使われていたこと。それをどこから輸入したのか、なぜその武器が補給されなくなったのかについてイギリスとサモリとの外交関係の変化について触れるのもいいだろう。


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