大久保っちのちっちゃな研究室〜 ハーバーフェルトトライベン (Haberfeldtreiben)の世界 〜燕麦畑の狩人たち〜
 


大久保っち(おおくぼっち)のちっちゃな研究室

   大久保っちのちょっとした研究     


上田自由大学運動とその社会的基盤

〜上田自由大学設立の過程と自由大学運動の経過を中心に2

 大学時代に卒業論文でとりあげた自由大学運動に関する内容の第一章を要約してまとめたものです。

3.上田自由大学設立以前の上田小県地域における社会的基盤(第一章)

(1)大正デモクラシー期と農村青年達
  @米騒動の時期における長野県下における物価騰貴
   →1918(大正7)年8月17日に長野市城山では米価引き下げの市民集会があり
    集まった約千人の民衆は一升ニ五銭の廉売を決議。穀店へ押しかける
  A普通選挙の即時実施を掲げる信濃黎明会所属の農民青年の活躍
   →自由大学運動で活躍する「デモクラシーの気運に若い血汐をたぎらせていた」猪坂直一と山越脩蔵
  B県内では青年組織の誕生‥‥信濃青年改造同盟(松本、1920年9月2日発足)、西部黎明会(上水内
    郡西山地方、1920年11月発足)、信濃黎明会(小県郡、1920年10月2日発足)
  C信濃黎明会の招きによる講演会の開催‥‥1921(大正10)年9月25日尾崎行雄の講演。入場料50銭
   →ある人物の斡旋で有名人を招いて講演会を行う形式→自由大学における形式との類似性
  D山越脩蔵の意識変化‥‥政治活動よりも教育活動に関心示す
   →土田杏村との手紙のやりとりを通し、信濃黎明会とは分離した形で自由大学の実現化へ
  E官制の手による社会教育機関の設立
   ・1917(大正6)年3月2日財団法人信濃通俗大学会の設立認可
   ・1918(大正7)年4月 木崎夏季大学の設立
   ・1918(大正7)年7月 軽井沢夏季大学の設立
   ・1921(大正10)年   戸隠通俗大学会の設置
(2)上田小県地域における農村青年達の学習意欲
   @長野県下における寺子屋普及率の高さ‥‥明治初年寺子屋数は全国の中の8.5%強
    →寺子屋教育の先進地域。農民の教育水準の高さ。義務教育普及においても先進地域
     進学率も高水準。学習意欲の高い農民達の存在
   A自由大学設立以前に訪れた土田杏村から見た農村青年たちの学習状況
    →学問に対する関心の高さ。哲学に対する強い関心
   B山越脩蔵の考え‥‥選挙民が有効な権利を持ちうるためには自己教育が必要
    →そのための教育機関の必要性。土田杏村を迎え講演会を行う計画を実現化
   C蚕種農家および蚕種製造業の跡取りの多かった青年達‥‥裕福な農民達
   D夏期講習会の開催‥‥1916(大正5)年8月初旬。講師は西田幾多郎。会場は上田中学校
   E1920(大正9)年9月23日から5日間。土田杏村を招いて講演会実施。場所は信濃国分寺客殿
    →32名参加。哲学・思想の流れに関する内容で、聴講料は一人3円
   F小県哲学会の成立。学習会の成功。組織的な学習機関設立の構想へ発展
    →土田杏村が「信濃自由大学設立趣意書」の草案を作成
(3)上田小県知己の経済的基盤
   @日本でも有数の養蚕地帯であった上田小県地域‥‥江戸時代中期から養蚕業の開始
    →養蚕技術の発達。上田領産出の蚕種の優秀さが国内外で認められる
   A明治期には生糸輸出の好調。アメリカ市場への進出。第一次世界大戦時に養蚕業の興隆
    →1919(大正8)年に糸価は4月末に1900年、7月2070円、9月2200円、10月2470円、
     11月3420円に上昇、繭価は一貫匁12円以上
   B好不況の波が激しいにもかかわらず養蚕を行う農家が増加
    →経済的余裕のある農家の存在。運動の中心となる山越、金井は資産家
     「自給自足でなんとかやっていこうと思えばできる農家」
     農閑期(冬)の時間的余裕と養蚕業の好況による経済的余裕の創出


4.上田自由大学の設立と自由大学運動の展開(第二章)

(1)自由大学の実際
 @上田自由大学の講義内容:1921(大正10)年11月から1926(大正15)年まで毎年6つの講座
   合計30回の講座を実施→哲学5回。哲学史4回。倫理学2回。社会学2回。心理学1回。
   宗教学4回、法学(法律哲学)2回。経済学2回。社会政策1回。文学論5回。政治学1回。
   社会思想史1回。
 A講師
  恒藤恭(法律哲学)、土田杏村(哲学概論)、出隆(哲学史)、世良寿男(倫理学)、大脇義一(心理学)
  山口正太郎(経済学)、佐野勝也(宗教学)、高倉輝(文学論)、新明正道(社会学)、金子大栄(仏教概論)
 B聴講生の数は50人前後。高倉輝の文学論は聴講者が多く、第一期・第二期とも60名以上
  聴講生の構成は、多い順に農業者(全体の40〜50%)、教育者(全体の20〜30%)、
  他は官公吏、医師、学生など。年齢層は若い農村青年から60歳代の老人まで。
  通学に関しては「上田市周辺の一、ニ時間以内で来れる場所」から通学するものが多かったが、
  中には「上田から50キロもある上高井郡」から来る者もいた。
 C自由大学における会員の聴講料:当初は一講座三円三〇銭(選択聴講は四円)
  →聴講者50人確保した場合には経営の成り立つ試算。
   実際第一期には経費は聴講料だけでまかなえず、不足金は一部からの寄付金により完済
  →第二期には一講座三円に変更。それでも経営難のため、1924(大正13)年「信濃自由大学会」を設
   立し、連続して聴講する会員の確保につとめる
 D講師への謝礼:当初は100円を予定したが、実際には70〜80円
(2)自由大学運動の波及
 @信南(伊那)自由大学の誕生‥‥1923(大正12)年12月発足。翌年1月から開講
  →社会学や経済学の講座を多く設置。経営上の問題(経済的基盤の弱さなどが関係)、反動的な教
   育運動とみなされ、聴講生が激減
 A他地域における運動の拡大‥‥1922年に魚沼自由大学、八海自由大学、翌年には福島自由大学、
   1925年には松本自由大学、群馬自由大学の開講
   →いずれも経営困難。講座内容も講演に近い内容で長続きせず


5.最後に

 今回は第一章と第二章の一部から自由大学運動の実態について簡単に触れた。この運動は、生涯教育の観点からすれば、このような教育機関を官制の手によるものではなく、民間人が立ち上げたことに歴史的に大きな意味があるといえよう。とはいえ、このような機関が経営上の問題を設立当初からクリアしなければいけない課題を持たざるをえなかったところは、運動としての限界を当初から持っていたと考えられる。

  

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