大久保っち(おおくぼっち)のちっちゃな研究室
大久保っちのちょっとした研究
祭りとシャリヴァリの実態とその衰退
〜ヨーロッパの民俗慣習から前近代を考える1
ここに掲載したものは社会科の部会などで発表したものです。社会科部会世界史研究推進委員会で発表した内容の概要です。ヨーロッパの祭りとシャリヴァリの変化から前近代とは何かを考えたものです。 |
前近代をどうとらえるか。ここでは、地域をヨーロッパに限定する一方で、祭とシャリヴァリという視点からとらえる試みをしたい。土着の信仰とキリスト教の受容に伴い成立した祭は17世紀前後にヨーロッパ各地で栄えたが、18世紀を過ぎると変質もしくは衰退していった。一方各地の共同体社会で再婚者などを対象に若者が中心になって行なった制裁「シャリヴァリ」という慣習についても19世紀になると一部の地域を除き消失する。それは、どうしてなのだろうか。祭や慣習が衰退、消失、変質化した背景にはどのような社会的変化がみられるのだろうか。このような観点からここでは簡単な検討を加えてみたい。
2.祭りの成立と発展の要因 (1)祭りの成立と発展を支える経済的基盤は何か? |
人々の生活の困窮しているとしたら、祭りは成立もしないし、さらには発展することもない。実際ペストが流行した時期や戦乱の続いた時期に祭りが中止となった事例も多い。したがって必要なのは祭をやるだけの経済的ゆとりである。特に祭りを大掛りなものにすればするほどそれを支えるだけのものが必要である。幸いなことに中世から近代にかけて農業生産は増大し、余剰生産物の交換により各地では定期市が行なわれていた。祭りはこの定期市がおこなわれる場所でよく行なわれており、その結び付きは深かった。また、自治権を獲得した自治都市における商業・手工業の発達はめざましく、ギルドとよばれる同業者組合が成立し、富裕な者もあらわれていた。このような市民が祭の資金を負担していたのであった。また、教会や司祭が資金の援助をすることもあった。したがって、このような祭の運営を可能とする経済的基盤があったことが、祭の成立と発展をもたらす大きな要因となっていたのである。特に自治都市では15・16世紀から大掛りな祭が催されている。
農村における祭の運営主体はいうまでもなく青年たちであった。共同体にとっても祭を毎年続けていくことは大切なことであった。また、自治都市ではギルドやコンフレリ(信徒会)がこのような祭の運営にあたっていた。
農村における祭は農業祭であり、かつキリスト教の信仰とも関連するところがあった。農村での寄合は祭のおこなわれる定期市であったので、共同体の維持という点でも大切な意味を持っていた。教会側はこの農民たちによる祭を必要なものとして認めていた。1444年パリの神学会議では「愚者の祭」や「ロバの祭」に対し、次のことを述べている。
『われわれは何もまじめにこの祭を催そうというのではなく、純粋な楽しみごととして、伝統に基づく遊びごととして、年に一度、馬鹿をやってみようというのである。これはわれわれの第二の天性でであり、人間の気質につきもののように思われる。』
中世から近代にかけて祭の会場として教会が使われることもあった。「ロバの祭」の中にも『穀物を食べ終えしかば/ロバよ、アーメンを唱うこそよけれ、/アーメン、さらにアーメンを』という詩句がみられる。農業をおこなう上で欠かせない伝統的な行事の祭は、教会中心に形成される農村の中で共存する教会にとって、キリスト教の農民への教化のための絶好の機会でもあった。
一方、都市における伝統的な祭においても教会は伝統的な祭を支えた。祭では見せ物としてキリスト教に関係のある人物の登場する典礼劇などが催された。ここでも農村と同じように祭がキリスト教の民衆教化の場となっている。
3.祭の衰退と変質をもたらしたもの (1)産業革命と資本主義の発達は祭に何をもたらしたか |
産業革命が始まった18世紀後半以降の時期は祭の衰退した時期と合致する。イギリスでは産業革命によって農業の経済における相対的な地位が低下していき、 19世紀後半にはその傾向は一層進んでいる。その一方で1878年に150の農村定期市が廃止されている。寄合や定期市の日取りの設定も難しくなり、農村 の祭にとって深いつながりのある定期市が消失していった。また、産業革命により資本主義が発達し、労働者となる若者たちは農村から都市へと流出するように なった。また、徴兵により若者が離村するケースもあり、農村社会では急激に人口が減少するとともに人口構成も大きく変化するようになった。農村社会での若 者の減少は共同体の力を弱めていった。若者たちの離村により、祭の運営は困難となり、祭は衰退していった。産業革命と資本主義の発達は祭の衰退をもたらし たのである。
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