大久保っちのちっちゃな研究室〜 ハーバーフェルトトライベン (Haberfeldtreiben)の世界 〜燕麦畑の狩人たち〜
 


大久保っち(おおくぼっち)のちっちゃな研究室

   大久保っちのちょっとした研究     


祭りとシャリヴァリの実態とその衰退

〜ヨーロッパの民俗慣習から前近代を考える2

 ここに掲載したものは社会科の部会などで発表したものです。社会科部会世界史研究推進委員会で発表した内容の概要です。ヨーロッパの祭りとシャリヴァリの変化から前近代とは何かを考えたものです。

3.祭の衰退と変質をもたらしたもの  (2)宗教改革は祭に何をもたらしたのか

  都市における祭では見せ物として受難劇や史劇の上演が行なわれていた。その意味で祭はキリスト教の民衆教化の場として機能していた。教会が祭に資金の 援助をしていたのは、祭のこのような位置付けがあったからであろう。しかし、16世紀以降に起こった宗教改革の影響は祭にも波及した。
 しかもこのカトリックとプロテスタントの宗教的対立は政治的対立にもなりえた。イギリスでは16世紀にキリスト聖体行列などの宗教的祭事が消滅していっ た。また、1605年に起きた火薬陰謀事件はカトリック側の起こしたことで、この事件をきっかけに「ガイ・フォークス記念日(11月5日)」という祭が成 立するようになった。この祭で出てくるワラ人形は「ガイ爺さん」と呼ばれ親しまれているが、これはこの事件の主犯者フォークス・ガイのことである。この日 には花火があげられ、薪に火がつけられこのワラ人形が燃やされる。現在でもイギリスではこの祭りが行なわれている。しかし、この祭は人形に火をつけるとい う特色からみても以前からの民間でおこなわれて来た異教的な祭の要素を持っている。したが って、これは新しい祭の成立とはいえ古くからの祭がこのような政治的事件をきっかけに消滅ではなく変質したとみてもよいだろう。
 宗教改革のおこったドイツでは、ルターがウィッテンベルクの謝肉祭で反教皇的宣伝を取り入れている。また、ルツェルンの謝肉祭ではツウィングリをかた どった人形が火の中に投げ込まれている。このように、祭は宗教改革の宣伝もしくはそれに対する抵抗の姿勢を示すような場となっていく。そして、カトリック とプロテスタントの対立は祭の場において暴動・虐殺の起こる場とまでなりえた。
 ところで、反宗教改革側での刷新運動についてもふれておく。初期教会パウロ・アウグスティヌスの精神に立ち返りカトリック教会内部の宗教的刷新をすすめ るジャンセニスト(ヤンセン派)による民衆的慣習の追放運動はこのプロテスタント側の宗教改革に触発され展開されるようになった。祭の内容に異教的な民衆 的慣習があることを批判する彼らの運動の中で、教会の祭に対する姿勢が変化していく。教会は祭の中での舞踏の禁止令を出し、宗教的保障を与えるのを拒否す るのである。また、日曜・祭日の休業を厳守する要請を行政機関に出すようになり、定期市の日の設定を困難にさせるような要因がつくられていくのである。


3.祭の衰退と変質をもたらしたもの  (3)中央集権国家体制の強化は祭に何をもたらしたか

 中世において都市の祭は自治都市としての誇り、その土地に対する帰属意識を高めるうえで必要なものであった。タラスコンのタラスク(竜)やドーイエのガイヤン(巨人)などの練り歩きや市民によるパレードと武技、そして芝居や踊りなどの見世物があり、音と光の饗宴の場となっていた。  これらの祭は15・6世紀頃から始まり、他の地域から来る見物客も多く、祭は賑わい都市の商業発達にとっても大切なものであったが、ルイ14世の君主政のもとで中央集権化をすすめる国家はこのような自治都市の商業的自治を認めず、自治を失った都市では祭の運営が困難となった。1728年にはトロウ、1770年代にはリール、ブリュージュ、ゲント、ルーヴェンで、1786年にはメッスにおいてこのような多額の費用を要す竜や巨人の練り歩きは祭典の行列から姿を消すようになった。そして、それにかわって国家的な祭典が登場するようになってきた。


3.祭の衰退と変質をもたらしたもの  (4)市民革命は祭に何をもたらしたのか

 1789年フランスで市民革命が起こり、古くからの祭は封建的なものの象徴とされ、廃止されるようになった。市民によるパレードも消滅し、一斉射撃などの アトラクションも禁止されていった。ドーイエのガイヤンは市当局と革命委員会の手で、「専制主義の考案したくだらぬもの、無駄なもの」として全部が禁止さ れ、タラスクもアルルの国民衛兵によって破壊された。その後のタラスコンの祭は静かな祭となった。市の書記はその原因を「アルルの市民によりタラスクが 焼き払われた。 新憲法でギルドとコンフレリが解体した。 若者の大多数がタラスコンから去っていった。」の三点と指摘している。このように廃止された祭 の一部についてはボナパ ルトの勝利、王政復古の時代になると復活するが、以前のようにすべての祭が活気を取り戻すわけではなかった。行政側はしばしば暴動に発展する傾向にあった 祭を危険視するようになり、祭の衰退はこのような社会的変化の中で十九世紀に衰退していくようになった。

4.祭の衰退と変質について

 このように近代にかけて起こった宗教改革、産業革命、中央集権国家の成立、資本主義の発達は祭の衰退と変質をもたらした。一方で中世の重要な要素である定期市と自治都市は消失し、ギルドは解体した。祭を支える要素も失った近代では祭は衰退もしくは変質化せざるをえなかった。また、謝肉祭が虐殺・暴動の場となることも多くなり、変容していったことは教会側の理解を失い、民衆の理解をも越えてしまった。
 祭は変質した。また、それを理解する人々は減少した。祭は観光的なものへと変化したものが存続することとなった。現代の価値の多様化により、すべての人々が祭をおこなう必要性を感じなくなってきた。スポーツ観戦レジャーなどの娯楽が人々の心をとらえるようになり、多様化する個々人の余暇の活用が共同体社会の一つの娯楽であった祭を衰退させたのだろう。祭もいまやレジャーの一部であるイベントとなってきており、共同体の維持や年間の農作業の節目という祭が持つ本来の存在意義を失いつつあるのではないだろうか。
  

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