大久保っちのちっちゃな研究室〜 ハーバーフェルトトライベン (Haberfeldtreiben)の世界 〜燕麦畑の狩人たち〜
 


大久保っち(おおくぼっち)のちっちゃな研究室

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祭りとシャリヴァリの実態とその衰退

〜ヨーロッパの民俗慣習から前近代を考える4

 ここに掲載したものは社会科の部会などで発表したものです。社会科部会世界史研究推進委員会で発表した内容の概要です。ヨーロッパの祭りとシャリヴァリの変化から前近代とは何かを考えたものです。

6.シャリヴァリの類型   (3)性的シャリヴァリ

  ここでは、性的軌範の違反者・逸脱者が対象となり、具体的には姦通や不品行などをおこなったもの広くいえば近親結婚者、金銭のために身を売る若者たち、妻の裏切りを黙認する夫なども犠牲者となった。とくに姦通者に対しては身ぐるみを剥ぎ、裸体のまま市中を走らせ悪罵や嘲笑を浴びせられるということが行なわれた。フランス南西部のアジュネ地方のクレルモン=ドゥシュで1262年姦通の発覚した二人に加えられた制裁はその例である。


6.シャリヴァリの類型   (4)闘争シャリヴァリ

 18世紀になると従来の伝統的なシャリヴァリとは違い、「政治的・経済的・社会的不満や反発を特定の人物なり組織なりにぶつけて、民衆がその意思表示を行 なう」というシャリヴァリが発生するようになった。アンシャン=レジューム期の1770年代ボージョレ地方では検察官を襲撃する事件が発生した。
 18世紀以降のシャリヴァリでは検察官、政治家などを対象としたものが増えていく。1848年二月革命によりギゾー内閣が崩壊した時も、その一人の閣僚エ ベール氏に対するシャリヴァリがおこなわれている。彼の邸宅の窓の下には「嘲笑者たちの一団が、赤い頭巾をかぶせられ、リボンや鈴で飾られたロバを一頭引 き立て」て「首からギターを下げた一人の庶民が、氏にグロテスクなセレナーデを奏で」る風景が見られたのだ。(『一八四八年の革命史』)
  制裁の対象者をロバに乗せ、本人又は身代りの人物(もしくは人形)を引き回すようなことを「アゾアド」とも呼ぶが、このような形をとりながらシャリ ヴァリがこの時代には政治の統治者に向けられていくようになった。翌年にはアルザス地方の古都コルマールで国民登録局長のグランジエの暴言に対するシャリ ヴァリが始まった。市民は口々に「シャリヴァリだ!」と叫びながら邸宅に押しかけた。連日連夜にわたるラフ・ミュージックを伴ったシャリヴァリはグランジ エが更迭されるまで続いた。


7.シャリヴァリの変質と衰退にみられる社会の変化  (1)シャリヴァリの存在意義

 近代以前にみられたこのようなシャリヴァリはなぜ必要であったのだろうか。まず第一に共同体における掟を守らせるための実力行使の場として必要であったと いうことであろう。「性的シャリヴァリ」に見られるように性的規範は共同体では維持の上で必要であり、特に姦通者に対しては厳しい制裁が必要と考えられて いたのだろう。また、「婚姻シャリヴァリ」は共同体社会における結婚・再婚のルールを全体に示しているものにである。「強妻シャリヴァリ」は当時の男性の ありかたと女性のありかたについて共同体の中で一定の認識があったことを物語っている。共同体における認識はその社会での規範である。
 第二に考えられることはシャリヴァリはこのような規範からの逸脱者を共同体社会において迎え入れる重要な通過儀式となっていたという点である。こ れは蔵持氏が指摘する観点である。シャリヴァリを行ない、シャリヴァリ税を払わせるということで、このような逸脱者が共同体社会で一構成員として認められ る。彼らは基本的には制裁を加えるのであって、本人を殺害するわけではない。もちろん、場合によって暴動に発展することもあったが、これはむしろ特殊な 場合であった。したがって、教会側もたびたび禁令を出したがむしろこのような民俗慣習に対しては寛容であったし、裁判における判断も軽犯罪のひとつとして 処理されることも多かった。だからこそ、このシャリヴァリが長く存続できたのであろう。

7.シャリヴァリの変質と衰退にみられる社会の変化  (2)シャリヴァリの変容

 明らかに「闘争シャリヴァリ」は他のものと違った要素を持っている。したがって、市民革命に起きた十八世紀以降はシャリヴァリに大きな変化をもたらしている。政治や社会への不満はシャリヴァリのスタイルを持って表現される。対象となるものはもはや単なる共同体社会の逸脱者ではない。極めて政治的な要素を含んだ共同体における規範の逸脱者となっていくのである。したがって、このようなシャリヴァリの変容は、決して近代における市民革命以降の政治の動向と無関係に語れないだろう。また、ロバート=ダントンの「猫の大虐殺」に紹介されているコンタの回想録は脚色されたことも考慮に入れればすべてを真実としてとらえるには限界があるが、印刷工による親方の猫を含めた猫の虐殺事件の裏に資本主義発展に伴う資本家と労働者との関係の変化(親方と徒弟という昔ながらの関係の変化)をみることができる。工場主夫婦への不満が、シャリヴァリ的な方法を取り、親方ではなく猫をその代用にして血祭にあげるということが行なわれている。

7.シャリヴァリの変質と衰退にみられる社会の変化  (3)シャリヴァリの衰退

 シャリヴァリが急激に衰退していったのは19世紀である。フランスではバ=ラン県で1830〜40年、ソンム県では1880年頃、シャラントやシャラント =マルティム県やヴェンデ県とランド県、モルビアン県などでは1900年頃消滅した。最後まで残ったところでも1930年頃には姿を消している。
どうしてこのように衰退が進んだのだろうか。ここでは、検討を細部に加えることができなかったので、個人的感想としていくつかの視点を示し、意見を述べた い。一つは国民国家の成立の一方で共同体の力が弱められたこととシャリヴァリの中心となる若者が農村において減少していったこと。二つ目にはシャリヴァリ が政治色を反映するようになって、共同体においてその方法が支持されなくな ったこと。また、政治がこの危険性のある慣習を禁止していったこと。三つめには法律の整備によって法的制裁にかわるこのような共同体による制裁が必要なく なったのではないか。四つ目には女性の地位の向上が法律でも実現することによって共同体における規範の意義が薄れていったのではないか。また、結婚観など の価値観が個人のレベルで多様化しつつあるからではないか。このようなことが考えられる。
アルザス地方のオーベルネの市立古文書館では1632年から36年にかけての婚姻についての記録がある。全体の婚姻件数は277件だが、このう ち寡夫と寡婦の再婚は104件、寡婦と若者の結婚が51件、寡夫と娘の結婚は37件であるのに対して独身男女の結婚は76件である。この数字を信じれば、 全体でみると再婚が決して珍しいケースではないことがわかる。とすれば、シャリヴァリが多かったのは再婚が決して特殊なケースではなかったことにも起因す るのではないか。逆に言えば、近代・現代となって再婚率が低下したこともシャリヴァリの衰退につながっているのかもしれない。


8.最後に

 祭りとシャリヴァリから前近代をどうとらえるかを考えてみたが、細部にわたる検討ができたとは言い切れない。今後の課題としたい。事実はこれらが近代に衰 退していったということである。そしてこれは共同体の崩壊と関連している。共同体を基盤としたこれらは産業革命と資本主義の発達、国民国家の成立と発展の 中で姿を消していくのである。


9.主な参考文献

(1)イヴ=マリ=ベルセ(井上幸治監訳)「祭りと叛乱」藤原書店,1992年
(2)蔵持不三也「シャリヴァリ−民衆文化の修辞学」同文館,1991年
(3)蔵持不三也「異貌の中世−ヨーロッパの聖と俗」弘文館,1985年
(4)樺山紘一「ヨーロッパの出現」講談社,1985年
(5)福井憲彦「時間と習俗の社会学〜生きられたフランス近代へ」,新曜社,1986年
(6)ロバート・ダントン(海保貞夫・鷲見洋一訳)「猫の大虐殺」,岩波書店,1986年

  

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